普段やらないことをやってみると人生が少し豊かになる理由。小さな行動の変化からの気づき

昨日、母親といちご狩りへ行ってきた。

いちご狩りは、元々行くことに戸惑いがあった。

しかし、色々と自分の今までなどを振り返り、かつ2月中旬以降は行こうと思っていた場所ではいちご狩りはできず、3月以降はリワークプログラムへの参加の可能性が出てくることもあり、昨日、思い切って行ってみた。

行ってみたことで、当初、自分が想像していなかった感覚を得られたり、感情が動くことって良いものだなと感じたりすることができた。

そして、普段やらないことをやってみると、日常が少し豊かになる気がした。

 

 

いちご狩りに興味が湧くも、行くことに渋った自分

いちご狩りの存在を知ったのは、会員登録しているJR東海の「エクスプレス予約 スマートEX」によるダイレクトメールだった。

場所が近場で、日帰りができるし、いちご狩りなんか今まで考えたことがなかったので、休職中の今、時間が空いていることもあり「行ってみようかな」と思った。

しかし、筋トレやブログ作成などルーティンを崩すことになるかもしれないので、行くか否かを決断できなかった。

ルーティンのメリットは、

・作業などに慣れることで素早くできる
・生産的にできる

といったところだろうか。

また、ルーティンにこだわるのは、

・お金をかけたくない
・取り組みたいことに対して、直接的に何か為になると想像できない(“消費”して終わる気がする)
・今の生活は、自分なりに考えて今の自分に最適な気がするからリズムを崩したくない
・体内時計が狂い、筋トレにスイッチが入らないのではないかと懸念してしまう

と言うのがある。

ルーティンを崩すことによるデメリットは考えたことがなく、ただただ、「ルーティンを崩す=積み上げたことがゼロになる」と言う”イメージ”で考えてしまっていた。

 

ルーティンを続ける=それまでの自分で在り続ける

ルーティンを続けるということは、良くも悪くもそれまでの自分で在り続けることだと思う。

考えも行動も代り映えしない。

実際に頭の中を駆け巡ることは、ほとんど同じ。

今の私は、休職しているにも関わらず、仕事のことばかりを考えてしまっている。

多少なりとも今までとは異なることをすれば、また違った視点を養えたり、見える景色が変わるはず。

いちご狩りなんか今まで行ったことないが、ここで行くことで「いちご狩り」と言うものに意識が向くようになる。
人は、経験したことに対して、意識が向くようになるし、イメージが膨らんだりすると思う。

これまでの考え方が今メンタル不調になり、休職することになったと考えているので、自分の考え方を再構築する必要もあり、それをルーティンの中でやろうと思っても難しかったりするだろう。

自分自身の考え方というのは、理屈や論理でどうこう変わるものではない気がする。
人は、感情の生き物である以上、感情が動くことで自分の中の何かが変わるのかもしれない。

だからこそ、気が振れたことがあるなら実際にやってみることで、自分にプラスになるはずだと思い、いちご狩りへ行くことにした。

 

 

実際に行ってみて感じたことなど

いちご狩りは食べるのとお土産分の収穫するのに合計30分くらい使った。

自分でいちごを”獲る”+”その場で食べる”をすることに面白さがあった。

「どのいちごを獲ろうかな」といちごを見ながら考えられるのは、普通の生活を送っていたらできないこと。

その場でいちごの甘さ、みずみずしさを感じながら頬張ると体全体で美味しさを感じているようだった。

しかも、お土産用にいちごを収穫する時も、

・どの大きさを獲るか
・どうやってパック詰めするか
・どの程度の色のを獲るか

みたいなことを考えながら歩き回り、パック詰めできたこともそれはそれで面白かった。

 

また、お昼ご飯を浜焼き食べ放題で1時間使ったが、

・牡蠣、ホタテ、エビを時間いっぱい食べた
・その場で焼き加減を見ながら調理できる

といったことも良い刺激になった。

その他、お土産を買うに当たって店内を見回ったり、食後にアイスクリームを食べたり、普段使わない路線を使い海を見れたりと五感をフル活用してその場を過ごせた。

 

行ったことで感じた視点

実際に行ったことで、感じられた視点もあった。

ここで書いたことは、普段の日常でも感じ取れることではあるものの、普段の日常では「見慣れた景色」、「よくある出来事」だと思って素通りすることがあるけど、今回は日常から離れたことで、得られた視点だと思う。

 

①環境に左右されやすい自分

平日なのに、子連れや団体客がいたりと、意外と賑わっていた。

この光景を見れたことに嬉しさを感じた。

・子供が動き回っている
・お父さんが子供2人を抱っこしている
・親子で会話している
・団体客が会話している
・賑わっていることでその施設に売上や利益がもたらされている

 

1月に浜焼きと焼肉を食べられる場所へ行ったが、そのお店がある場所は商店街で、少し閑散しているように思え、寂しさを感じた。

 

そのときの自分と比較してみたときに、私は環境によって感情が浮き沈みしやすいんだなと思った。

 

 

②自分は母親の子供なんだなと感じた

母親は、昼食の時に、テーブルに食材が減ってきているのを見て、追加で食材を取りに行ったり、時間を見て私の分までデザートを取ってきてくれた。

別に私は、「食材を取りに行かないと」、「そろそろデザートでも食べるかな」みたいなことを言っていないにも関わらずだ。

私から見ると、母親は、私が子供の頃から、「誰かのために」と思って行動してきた印象がある。
自分のことより他者のために動いていたと思う。

 

実は、私も自然と他者のためにと思って行動することがある。

自宅で料理を作ったり、洗濯物を取り込んだり、食器を洗ったり…
仕事でもマニュアル作りは、自分だけでなく他の人も作業をしやすくするために、という思いから取り組んでいた。
今回のいちご狩りにおいて、母親と行ったのは、母親は基本的に出掛けることが少なく、勝手ながらいつもとは異なることをやった方が母親のためかな、と思ったので声をかけてみた。

 

私の「誰かのために」という考え方は、母親から受け継いでいるんだと感じた。

 

③親と時間を過ごすことで自分のことを知れる気がする

親と外に出られるのは、今まで親と過ごす時間が少なかったからかもしれない。
(学生時代は野球漬けだったし、卒業後は公務員試験の勉強や自己啓発系に取り組むことが多かった。)

順当に行けば親の人生のほうが早く終わるし、自分だっていづれは一人暮らしをしたくなったり、結婚したりして家を出ていくことに。

親のことを知れれば、親の遺伝を引き継いでいる今の自分のことを知ることにもなるかも知れないと感じた。

母親だけでなく、父親と会話していると、自分の中にフワッと感じている価値観に対して、言語化されていたり、しっくりする考え方を聞ける。

また、父親や母親の行動や考えを見聞きしていると、今の自分を見ているかのように思え、こういうところを改善した方が良いのかな、と思ったりもする。

これからも、親との時間を大事にしていきたい。

 

④お金や時間は誰かと共有できると充実感が増す

今回、母親と行ったわけだが、

・電車に乗っている時に見えた海
・いちご狩り
・獲ったいちごを食べる
・食事を一緒に食べる

といった行為、その行為を通じて発生する会話、というのは他愛もないことだったけど、悪くない時間だった。

また、こう言ったことにお金を使えたことも良いものだった。

どんなことも一緒に時間を共にする、だと人に気を遣ってその場をやりくりするので、気が休まらなかったり、楽しめなかったりするので、程度はあると思う。

しかし、誰かと時間を共有できると、お金や時間を使うことに充実感を増すことにつながると感じた。

実際に、母親がいちご狩りやいちごを食べる、浜焼きを食べる、などの行為を見ていると、楽しんでいたり、美味しそうに頬張ったりする姿を見たりすると、それを見ている私は一緒に来れたことに嬉しさを感じた。

 

⑤「ねばならない」から気を逸らせるかも

私は、自分自身に対して「ねばならない」が強い人間だと感じている。

・勉強しなければならない
・成長しなければならない
・スキルアップしなければならない
・人を大事にしなければならない

 

いちご狩りへ行ったことで、普段行かない場所へ行くことで、「ねばならない」から気を逸らせる気がした。

移動時の景色、着いた先での景色やルートなどに気を使うからだ。

普段とは異なり、「今目の前のこと」に自然と集中せざる終えなくなるので、それまで考えていたことに考えが及ばなくなるのかも知れない。

そう考えると、休息を取る時は、時々でも良いので、普段とは異なることをやった方が良い、というのは理解できる気がする。

 

ちなみに、日々、自己啓発したり、子育てしたりしている人たちはどうやって活力を維持しているんだろうか。
定期的に、区切りをつけて、自分のやりたいことをやっているのかも知れない。

 

 

⑥特別扱いをしない

勉強など力を入れていることがあっても、それを特別扱いしない、が良いのかも。

朝ごはんを食べる、歯を磨く、お風呂に入る…

日々、無意識に取り組んでいることと同じ位置付けにする。

副業や勉強など新たに始めたり、力を注ぐことがあっても、それらに対して、あくまで、生活の一部と位置付ける。

 

何故なら、自分の中での何に力を入れているのか、と優先順位をつけてしまうと、それから離れたいと一時的に思っても、離れられず、”「やらなければいけない」ものだと囚われてしまう”と思うからだ。

 

今まで簿記1級を勉強していた頃は、簿記1級を勉強することが生活の中心であり、優先順位が最上位になっていたので、勉強することに対して、「やらなければいけないこと」になっていた。

そして、それが真綿のように徐々に自分を苦しめていった気がする。

今の私は、社会人になって「どんな目的で」「何に取り組むのか」は自由であり、学ぶことって本来は面白いと感じて良いはずだ。

しかし、学生時代のように、「勉強=辛い、苦労する、耐えるもの」だと思って取り組んでいた。

 

経験値を積むことが他者からの指摘を受け止めることにつながる?

今回のような経験というのは、行ったことがない分、自分の想定外の自分を知れたり、自分の想定外の景色を見れたりする。

そうなると、

・自分の想定外
・目の前のありのままのこと
・自分がその時に感じたこと

と言ったのを”受け止める”ことになると思うのだ。

 

これって仕事だったり、私生活における人間関係にも繋がることではないか。

指摘を受けると言うことは、自分が持っていなかった視点を得られることでもある。
頭が硬いとそれに反発してしまうことがあるだろう(人は基本的に変化するのが嫌だから)。

こう言ったことって「柔軟な発想」だったり、「素直に受け止める」という脳みそ、心掛けがあれば受け止められるのではないか。

 

 

最後に:自分の感性が向いたことは強い

人に言われたことと自分の感性が向いたこと、全く異なる気がする。 いちご狩りは、自分の直感で〈行ってみようかなぁ〉と思えた。

行くと決断するまでに、行くか否かを「迷うことができた」し、脳裏から離れなかった。

しかし、過去に美容師の方からボルダリングやハーフマラソンへの参加など提案していただいたスポーツは、「仕方なく行くか」、「提案されたことはやらないとダメだよな」みたいなノリだった。

その人との会話を合わせるみたいな感覚だ。

 

自分の感性が向いたことに取り組んでみることで、何かを感じ取れたり、その場を楽しめたりする気がする。

自分の感性を今後も大事にしたい、いちご狩りはそんな風に思う旅だった。

そして、普段やらないことを少しだけ取り入れるだけで、日常の景色は変わるのかもしれない。

 

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