今回は、雑談に対して前向きに捉えられるようになった、ということを書いていこうと思う。
休職前の自分
仕事場でも、電車の中でも、雑談をすることに少々「無駄な行為」だと感じでいた。
・仕事の時間なら仕事に取り組む。そうじゃないと自分の役割は果たせない。
・話しているなら、手を動かした方が生産的じゃない?
・電車に乗っているなら、読書した方が良くない?その方が自分のためだ。
1分1秒を「自己成長」「貢献」に使わないと気が済まない、そんな自分だった。
自分が雑談することは許せないし、自分から雑談しようとなんか思わなかった。
雑談しなくても、やることやっていればストレスは溜まらないし、目の前のことを粛々と進めるのが自分のためであり、会社のためだと思っていた。
話しかけられた時はその話に乗っていたけど、決して自分から「雑談したい!」「雑談しよう」なんか思わないし、何も話のネタが思い浮かばなかった。
そして、雑談している人たちを見聞きするとその度に、「自分はこうやって仕事をやれている。さすがだな自分!この人たちは仕事が溜まっていくだろうな笑」みたいに周りの雑談を蔑んでいた。
人が雑談している中、自分が会社のためにやっている行動や考えが「周りよりちゃんとやれている」という優越感があった。
だからこそ自分の首を絞めていった
仕事中は、とにかく自分が決めたタスクをひたすらこなしていた。
私は、手帳へその日のタスクを書いていたのだが、「何時に〇〇というタスクをやる」といった時間軸があり、そこにはビッシリとタスクを詰め込んでいた。
雑談や休憩の時間は書いておらず、仕事中は常に緊張していた状態だった。
その際、「効率」「貢献」「生産性」を意識していた。
だからこそ、心身に疲労が溜まり、うつ病やパニック障害を発症してしまったのではないかと思う。
休職前に同僚が話しかけてくれたが、その時には既に「人と話すのが面倒」だと感じていたり、「目的が明確ではないこと以外は人と話さない」と決めていたりと、だいぶふさぎ込みがちになっていた。
今では思う「雑談の大切さ」
雑談をするからこそ、リラックスできる。
雑談をするからこそ、分かり合える。
そんな気がする。
私は、8月下旬と11月上旬に仕事中にて過呼吸が出てしまい、車椅子で保健室(?)へ運ばれた。
その際、保健師の方と仕事のことや体調のことを話したのだが、メチャクチャ肩の荷が降りた感覚があった。
心救われた感覚もあり、ほっと安心したのか涙が出た。(保健師の方には感謝の気持ちでいっぱいだ。)
また、家族とも他愛もない話をしたり、主治医との会話だったり、自分の思ったことや考え、最近の出来事、真面目じゃない自分を吐き出す・行動に出すことで、自分の中で何かが変わる。
それが癒しなのか、わからないがふと心が軽くなる。
最近、トレーニングジムへ行った際、サウナへ入ったのだが、そこで利用者の方たちが雑談していた。
それを見聞きした時、「こうやって一見どうでもいいことを話し合える相手・瞬間って大事だよな」「この人たちのやっていることって大事なこと」と思えた。
しかも、「こうやって人と目的がないことを話してリラックスしているんだよな。目的がない会話って大事だよな。」と思えた。
いつもなら、何も感情や考えは浮かんで来ないが、この時は違ったのだ。
最後に:出勤している限り「貢献」はしているはず
そう言えば、私は高校時代に野球部のマネージャーをやっていた。
その時は、1年365日、毎時間のように「貢献したい」「貢献しなきゃ自分の居場所がなくなる」と思って目の前の仕事をやっていた。
しかし、社会人となったある時に思ったのだ。
マネージャーがやっていることは全て「チームのために」なっているし、「チームへ貢献している」
これって仕事でも同じだと思う。
例えば、私は経理として予実管理を担当していたが、月末月初のルーティン作業をやるだけでもそれは「貢献」しているはずだ。
マニュアル通りにこなすだけでも、その行為自体がマイナスに働くことはないので、0に近いプラス程度にはなっているはず。
プラスになっているかというとそこは、付加価値の部分になるので、達するのには難しい領域ではあるが・・・。
(付加価値を出すことは、特に上司が求めるところであったり、自分が”成長”のために求めたりするところなので、MUSTではないと思う。)
そして、今回の雑談の話と絡めるなら、「効率」「貢献」「生産性」を意識して、日々緊張感を感じながら、真面目に取り組む必要はなく、時には同僚と会話することだって”全く”問題ないことだということだ。
辛くなったり、息抜きしたい、と思えばその気持ちに従って人に頼れば良いのだ。
そうしたら、健康的に生きていけるはずではないか?

