3月6日(金)よりWBCの日本戦が開幕した。
今回のWBCは、Netflixでの配信になり、地上波での放送は無いようだ。
2025年の夏頃だっただろうか。何かの情報でこのことを知ったが、その時は何も思わず。
しかし、日本戦の初戦を迎えた3月6日(金)になると、Netflixでしか観れないことに対して、いろいろな思いが巡ってきた。
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Netflixでしか観れないのは仕方ないかな、と思いつつも…
Netflixでしか観れないのは残念ではあるが、決まったことだし、放映権を支払えるだけの資金力があるということだと思うので、仕方ない話だ。
しかし、WBC開幕前の練習試合を地上波で放送され、本戦が地上波では放送されないことに対して、「Netflixへ誘導するための放送だったのか?!」なんて思ってしまった笑
日本戦を観たいならNetflixを契約すれば良いものの、Netflixへ誘導されているような自分に嫌気が刺して契約しなかった。
ただ、それ以外にも契約しなかった理由がある。
地上波で放送されない安心感
元々、日本戦をテレビで視聴する予定だったが、放送されないと知り、苛立ちがありつつも、安心感もあった。
何故なら、テレビに釘付けにならず、普段通りの生活を送れるからだ。
テレビで観れてしまうと、より一層「特別感」を感じてしまい、変な感情の昂りが出てしまうと思った。
WBCは、毎年開催されるものでは無い分、1試合、1球、1打を食い入るように観てしまうだろうし、さらには、日本が攻撃の時に満塁だったり、日本が守備の時に、1点入ってしまったりすると、気持ちが乱高下してしまい、メンタルがもたない。
テレビを観ることそのものに対して疲れを感じてしまうだろう。
そして、疲労が溜まり、日常生活における運動などやりたいことができなくなる恐れがある。
特別な1試合でも1試合は1試合
台湾戦、韓国戦など日本が優勝するまでには負けられない試合が続く。
国を背負っているのと、所属チームを背負うのとでは重圧や責任など比較にならないくらい重いものが国を背負うものにはあるはずだ。
そんな緊迫感のある大会なわけだが、普段のペナントレースと同じ1試合はただの1試合だと思う。
何が言いたいのかというと、特別な試合を「特別なもの」として受け止めてしまっては、普段の試合の重要性が下がってしまう。
また、特別な大会であっても、「特別なもの」として受け止めてしまってはその他の寝ることだったり、誰かと会うことだったり、何気ない日常がおざなりになってしまわないか。
もし観たいなら、リアルタイムでなくても、YouTubeなどによるハイライト・ダイジェストを観れば問題ない。
特別なものを「特別なもの」として受け止めたくないと思った経験
WBCのような特別なものを「特別なもの」として受け止めないと、人生面白くなくなるだろう。
それは、何となくだが理解できる。
しかし、私が「特別なもの」として受け止めたくないのには、自分自身の経験からだった。
簿記1級の学習
今の会社へ未経験経理として入社後、日々の業務をこなす中で、簿記の理解が足りないことを感じたり、簿記1級の知識が必要性を感じたりした。
そして、当時、所属していた講座(コミュニティ)にて簿記1級の学習を開始した。
平日は最低3時間、休日は6時間以上の学習が必要だと言われ、運動や読書、休息といった自分自身がやりたいと思ったことを手放した。
起床3時30分、業務後にコワーキングスペースで1時間学習、など簿記1級の学習に命を懸けるかのような生活を送った。
当時の私からすると、講座(コミュニティ)における簿記1級の学習は特別なものだった。簿記にひたすらリソースを突っ込んでいた。
しかし、そんな生活を送っていると、「本当に簿記を勉強したかったのか?」と思うようになり、どこか現実と自分の心(考え)に乖離があることを感じてきた。
勉強そのものから離れたいと思ったこともあったし、他のことにリソースを使いたいとまで思い始めた。
それでも、そんな思いを振り切り、日々、勉強に励んだ。
「本当に簿記を勉強したかったのか?」と思うには、私自身が日々の勉強における成長を感じられないから、といった原因があったと思っている。
それでも、簿記1級の学習を特別なものとして、私の生活における優先順位を1番にしたことで、勉強から自分の心が離れていった、日々の生活に満足感がなくなっていったのではないかと思う。
その他
私は、毎月毎月、基本的には生活リズムが変わらない日常を送っている。
趣味や行きたいところが特段ないから。
そんな時に、稀に前職の同期と会ったり、外食をしたい気持ちが芽生えたり、といったことが起こる。
それらが終わる時には、何だか完全燃焼したような気持ちになり、寂しさを感じる。
もしかすると、どれも私自身の経験の乏しさからくることであり、「非日常」と受け止めているからなのかもしれない。
「非日常」だからこそ、楽しいし、嬉しいといった感情が出てくる。そして、終わることにはその反動が来ている。
これは、「非日常」を「特別なもの」として受け止めているから出てくる反応だと思う。
「特別感」を無くすには”生活の一部”だと受け止めることではないか?
旅行だったり、遠出だったり、普段の生活では出来ないことをやることってあると思う。
非日常が悪だと思わないし、今回のWBCの件だってNetflixで観ても何にも問題ない。
しかし、あくまで私個人の考えで言うならば、感情の起伏というのが心身の疲れとして出てきてしまう分、「刺激のあるもの(特別なもの)」として受け止めたくないという思いがある。
そんな私の場合、特別なことであっても、”生活の一部”だという位置付けで受け止めるのが良いと思っている。
そのことで、朝食、運動など普段の生活で取り組んでいることと同じ位置付けになるので、心や思考が乱されずに済むと考えているからだ。
私にとっては、1日1日を過ごす上で、何に力を入れて、何を力を入れないか、というのはなく、どれも自分にとって大事なものだ。
だからと言って、費やす時間や体力というのを全て同じにするつもりはなく、それはあくまで取り組む対象の違いにより出てくるものだと思っている。
日々を大事にする
人との出会い、急に湧いてくるアイデアなど予想しないことって生きていればあると思う。
また、日々、同じ流れだったりして、マンネリ化することだってあるはず。
それでも、それはそれで自分の人生だし、そこに良い悪い。
偶然の出来事が起これば、嬉しさや楽しさ、さらには感謝の気持ちだったりが芽生えてくると思うが、それは日々の何気ない生活でも同じ。
今の時代、戦争して衣食住が確約されていない人がたくさんいる。
生まれた時から、満足に勉強したり、遊んだり出来ない子供だっている。
そんな不自由な日々を過ごす人がいるであろうこの世の中で、衣食住が約束され、今やメンタル疾患の治療のために休職し、リワークへ通えているわけなので、そんな私こそ日々の生活を大事に過ごしていきたい。
最後に
最後に、WBCが観られないと知ったとき、これまでの自分と比較し、強く反応しなかったことに気づいた。
情報に振り回されず、必要以上に追いかけない生活が、今の自分には合っているのかもしれない。
