昨日、映画鑑賞へ行った。
野球に関することで、著名人の方の実話をもとに作成された映画を見たが、自分が興味を持てるジャンルであるため、自分の心身の状態を図る上でも、ちょうど良いと思い映画館へ。
今回は、その時の経験を書いていこうと思う。
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心が揺さぶられる場面があった
映画の中には、高校時代の話も収録されていた。
その時の場面を自分に置きかけて、緊張感や感動といったのを感じ取ることができた。
また、高校時代以外でも、母親と主人公の方とのやり取りを見ると、私が「父や母と話していたらこんな感じだったのかな」と想像もでき、11月に観た映画よりも心の動きだったり、映画へ入り込める感覚があった。
映画は、音や光の刺激があり、人が何人も集まる場所で1時間、2時間と座っているので、映画館へ行くことは、刺激的で負荷のかかる行動になる。
それなのに、興味を示せたことで、少しずつではあるが、回復に向かっていることが伺えた。
集中できていない時間もあった(全体の9割5分くらい)
良かったこともあれば、冷めた目で見てしまい全く集中できない時が多かった。
<映画を観ていた時の頭の中>
・それっぽく見せられるのはさすが俳優だよな
・どのくらいお金かかっているのかな
・よくこんなに再現できるよな。こんなシーンは本当に覚えているの?どこまでが作り話なの?
・今この人は、何でこんなにも感情を込められるのかな
・今この人(演じている方達)は、なぜ涙を流せるのかな
しかも、上映中は周りをキョロキョロ見渡して、お客さん達の反応を見ていた。
「ねばならない」と義務感を感じていた
興味関心を持つことが目的になっていて、感動しないといけない、映画に入り込まなきゃいけない、といった義務感を感じていた。
たから、観ているのが苦しかった。
物語の題材となっている主人公やその家族の方たち、その他の登場人物の方たちへ申し訳なかった。
それならば、さっさと帰れば良いじゃないかと思うかもしれない。
しかし、感動するような映画で1人帰るのは場の空気を濁す気がして途中退席できなかった。
そもそも感動しないとダメだという「ねばならない」で映画館へ行き、さらに冷めた目で見てしまい、感動しないとダメだったという「ねばならない」があり、最初から最後まで「ねばならない」で自分を挟み撃ち状態にしていた。
自分という人間・それまでの自分の人生そのものだった
昨日、父親と話していて、この「ねばならない」と思って行動する自分は、これまでの自分であり、これまでの自分の人生だと感じた。
<代表的な「ねばならない」>
・野球を続けなければいけないから練習へ行く
・上司に怒られるないようにしなければいけないから、頼まれたことをやる
・会社から取得するように言われていて取得しなけらばいけないから資格を取る
・始めたら最後までやらないといけないから、最後までやり遂げる
・勉強時間を確保しなければいけないから、朝3時30分に起床する
・コミュニティのトップから怒られないようにしなければいけないから、勉強するし、生活を改善する
・キャプテンは上手くなければいけないから、練習する
・キャプテンはチームを引っ張らないといけないから、誰よりも声出さないといけないし、自分を追い込むトレーニングをやる
・疲れているけど、ブログを更新しなければいけない
私は、これまで野球や勉強などを通じて「自分を律して継続できる自分」だと思っていた。
しかし、実は、その継続できたのは「ねばならない」のおかげなのかもしれない。
「ねばならない」があったからこそ、孤独を感じながらも野球のキャプテンをやれたし、ITパスポートの取得ができたのではないか。
簿記1級の学習だって勉強時間を確保しようと起床時間を早めたり、業務後にコワーキングスペースを利用できたのは、「ねばならない」という義務感を感じれたからかもしれない。
最後に:自分の本心は何か?
結果的に、映画の内容とは逸れた記事になってしまった…。
それはさておき、続けるのも、苦しいひと時を過ごすのも別にそれはそれで構わない。
問題だと思っているのは、行動する・判断する動機になる。意味づけになる。
「ねばならない」を意思決定の中心に置いてしまうと、自分自身を押さえつけることになり、ストレスが溜まりやすくなると思う。
可能な限り、最大限、自分の本心を持って意思決定した方が良いと思うのだ。
そこには、人には言えない内容だったり、クソしょうもない理由でもなんでも良い。
・女の子にかっこいい姿を見せるために野球を頑張りたい
・将来、昇進して意思決定できるポジションに就きたいから資格を勉強する
・お金を稼いで家族を養いたいから副業をやる
・好きな人とデートしたいからお金を稼ぎたい
自分が自分の本心に気がつき、その本心を持っていることを許してあげる。自分でOKを出してあげる。認めてあげる。
そうしたら、「自分」という人間で生きていけるのではないか。
